2009年11月 6日 (金)

山の稜線がいよいよ濃くなり始め、白々と空の色が変わり始めた。左に比叡山を眺め、真正面に大文字がうっすらと見え始める。古都の夜が明けていく。朝日が山の影からゆっくりと顔をみせはじめ、たなびく雲を紅に染めていく。

 寝起きのまま、肌蹴た浴衣の佇まいを正しつつ窓辺に近づき、しばし日が昇るのを眺めていた。眼下に流れる加茂川のせせらぎも、夜明けとともに昨夜より幾分か小さく聞こえる。いよいよ日は高くなり、窓ガラスの結露がキラキラと朝日に輝きはじめた。久しぶりの京都だ。

 父は、今日この日を、心待ちにしていた。膝を痛めてからというもの、なかなか遠出をする気にはなれず、旅行を躊躇していた。膝は年々痛みを増し、医者通いも定期的になると、いよいよもうだめかという気にさえなるのだろう。しかし、今回の京都への旅行は、幸いにも娘の私が一緒であることが、どうやら出掛けようという決心に繋がったらしい。

 電話のベルが鳴る。いつものように少しだけ愛想の良い声で電話をとった。あっ、いつものシンクタンクの担当者だ。そうと気がつくと自分の声のトーンが少し下がったのが分かる。相変わらず、要領を得ない話がはじまってしまった。受話器を耳に当てながら、相槌を適当に打つ。チラッと時計を見ると、新幹線の出発時刻まであと20分、心の中でカウントダウンが始まり、「遅れるなよ、気をつけて来いよ。」という父の声が頭を過った。

 早々に電話を切り机を片付け、周りの同僚たちに遠慮がちな顔色で早退の挨拶をしながら逃れるように部屋出た。あと発車まで15分。駅までは10分あれば足りる。後はスムーズに改札を抜けてホームまでたどり着けば余裕だ。ビルの外に飛び出すと、雲ひとつない青空が広がっている。歩き慣れたオフィス街を早足で通り抜ける。勤めてから20年、地方都市のこの街もだいぶ姿を変えたものだと摩天楼を見上げた。

 改札を抜け、人波をかき分けホームへの階段を一息に駆け上がった。既に列車はホームに停車していた。父は、もう列車に乗っているだろうか。握りしめた切符をもう一度見直し車両に飛び乗った。座席を探す自分の目に、手を振る父の顔が飛び込んできた。よかった、間に合った。

 突然の母の入院、そして、8カ月間の闘病生活。父は自分が朝飯のしたくをするなど、思ってもみなかっただろう。ましてや、幼稚園に行き始めたばかりの娘の朝飯を作るなどとは。母の居ない朝、あどけない顔で園服を着て朝ごはんを待ちわびる娘に、彼は不慣れな手つきで、よく炒り卵を作ってくれた。

「どうだ?旨いか?」照れくささと、少しでも明るく振舞おうと彼が発した言葉に、娘の私は思いもよらぬ返事をした。「おとうさん、このたまご、おさとうがはいっていないよ。」「そうだ、忘れた。上からお砂糖、かけてみるか。」「うん。そうだ。かけたら同じだね。」娘のその言葉に、彼は少し救われたか、それとも、娘を誤魔化したようでなんとなく体裁が悪かっただろうか。母が入院してから父と娘の二人のこんな朝がしばらく続いた。父がギブアップして私を母の実家に預けるまで・・・。

 京都の駅は、紅葉の季節にはまだ早く閑散としていた。10年の歳月をかけて屋根を吹き替えた西本願寺に足を運ぶ。父はゆっくりと膝を庇いながら歩き立ち止まっては、カメラのシャッターを何回も切る。境内の大きな銀杏は、まだ紅葉には程遠く青々とした葉をつけていた。拝観もそこそこに、タクシーに乗り、父が行きたいと言った「真如堂」へと向かった。幼いころ片目の視力を失った父が苦学して進学した大学は、決して楽しい思い出ばかりではなかったらしい。大学からそう遠くないこの寺へ、鬱々とした悩みを抱えて一人来ては、腰をおろしてしばし佇んだことを良く話す。しかし、今となっては彼にとって懐かしい場所の一つとなった。時はひとを癒す、そして、ひとは時に癒される。見上げると、境内の三重の塔の法輪が、秋の空に高く伸びている。その下で、相変わらず父はカメラのシャッターを切り続けていた。

 夕食は高瀬川沿いの店。町屋風の京都らしい料理屋の急な階段を二階に上がり、ひとまず二人で乾杯。時間も早かったせいか、客は疎らだった。焼き栗に銀何、土瓶蒸、秋を堪能するには十分なほどの料理が運ばれてくる。気づけば、外はとっぷりと日も暮れ、高瀬川の水面に街燈がキラキラと光る。秋の燈に包まれて、久しぶりに父と娘、二人だけでの食事。遠い記憶が蘇る。お互いを思い合った、あの母の居ない朝ごはん。「お母さん、今頃、なにしているかしらね?」母のことを持ち出した私に、父は笑いながら答えた。「たぶん、友達と一緒に、今頃楽しく夕飯をいただいているだろうよ。あちらは、あちらで。」店を出て、二人ほろ酔いながら、高瀬川沿いを歩く。川の水面に、秋の月が影を落とす。月はだいぶ高くなっていた。

明月や古都の杯高々と

秋の月姿うつせし高瀬川 瞬

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2009年10月27日 (火)

枝豆の思い出

 今年はどういうわけか枝豆を沢山いただいた。特別好きでも嫌いでもなく、あればいただくという程度で、あまりスーパーで買ったことはない。  一番には筋向いの、主人と同郷の方から、「母の作った物ですが…」と、丁寧にさやにほぐした枝豆をいただいた。まだ、珍しい時期でもあり、早速に塩茹でにして夕食のテーブルにのせた。二番目は、お隣さんから「主人がインターネットで取り寄せたので…」と、ゆで方のレシピ付きでいただいた。これは丹波の黒豆だったので実も大きくて柔らかく、美味しくいただいた。三番目は、時々庭の手入れを頼む庭師の小父さんが、軽トラの荷台に未だ根っこに土を付けたままの枝豆の木を束にして置いて行った。乾燥を防ぐために取りあえず新聞紙にまいて勝手口に置いたが、なかなか作業に取り掛かれずに、1日が経った。何とかしなければ…と、枝を手にすると、根っこの土は既に乾き、ぱらぱらと新聞紙の上にこぼれた。枝先の葉っぱは、まだ色を留めているものもあり、広い畑から来たんだろうな~と空を見ながらぼんやりとしていた。でも、とにかく枝豆を枝から外して何とかしなくてはと考えていた。

 小学校に入る前の年、たった一年しか過ごさなかった所だが明和町という町がある。今は斎王宮址として注目、さまざまな催しが行われ歴史博物館や当時の館址などが発掘され保存されている。当時は何もなく、伊勢湾に近く、里山があちこちにあり近所のお姉さんにきのこ狩りに連れて行ってもらった記憶もある。たった1年しか過ごさなかった記憶の中に、今も鮮明に残っていることがある。それが、「枝豆」。隣の男の子、~名前などとっくに忘れているが~数人で遊んでいて、彼の家に行った時、お家の方が大きな釜で枝豆を枝ごと茹でていた。そして、私達に一本づつ渡してくれた。勿論食べたのだと思いますが、初めてのことで、今も鮮明に記憶に残っているというのは、相当なカルチャーショック?  もうひとつ、ことの前後はわからないですが、「枝豆のお宅」~今となっては、お名前も覚えていないのです~のお風呂に入れてもらったときの事、湯加減を聞かれて、私達が「熱い」と言ったら、す~っと窓が開いて、スコップで雪が入れられたのです。「うわっつ!」と言ったかどうだったか、全く記憶がありませんが、その窓から見えた星空とひんやりとした澄んだ空気の感覚が今も蘇ってきます。今ほど明かりが氾濫していたわけでもなく、本当に外の明かりは星と雪だったのでしょうか。明和町は伊勢市に近くどちらかと言うと温暖な気候、どうして湯加減に使うほどの雪があったのか?これもミステリーです。  とりとめもない遠い記憶ですが、皆さんもこんな思い出をお持ちではないでしょうか?  枝豆の枝ごとゆでてすすめられ   

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2009年10月16日 (金)

ちょっと早いけれど・・・

先日ラジオを点けると「来年の干支はなんでしょう?」という声が耳に入ってきました。

「はて?来年の干支はなんでしたっけ?」eye

後一ヶ月もすれば年賀状と共に、来年の干支も街のあちこちで見られるものの、この時季はまだその気配は僅か。

子供の頃十二支のお話を聞いた覚えもあるのですが、そもそも干支というのが何なのかという意味を深く考えることもないまま(中国の暦法から、という事ぐらいしか知らず)生活に馴染んでしまっています。(あっ、こんなにいい加減なのは私だけかしら?・・・笑)coldsweats01

今頃から和物雑貨屋さんを覗くと来年の干支の風呂敷、手拭い、ガーゼのハンカチなどが店先にずらりと並び始めますね。

一昨年の暮に買い物をしたお店で、端に小さく干支の刺繍のついた布きんを頂き、その干支の刺繍がとても可愛くて、一年を通して愛用しました。

こういうちょっとした小物でも好きな物が身近にあると毎日が楽しくなりますね。shine

そんな可愛い布きんやタオルなどを見ていると、新年に向かって台所や洗面所も気分一新したくなってしまいます。

以前読んだ本に「日本人は新しい物好きで、それは清らかでよごれていない物というところに価値を見出していて、ミソギといったような神道的な美意識が根付いているからではないか」と書かれていました。だからこそ年が改まって新しい年になるというこだけでも、「おめでたく、嬉しい事と感じるのです」という言葉になるほど~、と思っていましました。think

今のお正月はそんな事も無くなっているでしょうが、はるか昔(笑)私が子供の頃は年末に新用の洋服など買い揃えて貰い、新しい年が来ることにワクワクとした事を覚えています。

 そんな気持ちを思い出して、お布きんやら、タオルやら、来年の干支の柄の小物でも揃えてみようかと思っているこの頃です。

しかし、来年の干支は・・・う~ん、ちょっと可愛いとは言い難いかも・・・

皆さん、来年の干支を思い出されましたかしら?wink

木犀に遠き日ありて匂ひけり  カフェ・ラテ

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2009年10月 6日 (火)

ツマグレヒョウモン

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秋麗真昼の甘きささやきに  陶子

先日庭に植えようとビオラを2ケース買ってきました。

植え替えは明日にしようとケースごと軒下に置いてふと見ると、彩り鮮やかな蝶が蜜を吸っているではありませんか。急いでカメラを構えましたが全然逃げようとしません。じっくりとピントを合わせて撮れました。この時期の蝶は、動きが緩慢のようです。

すぐ傍で見ている私など気にも留めない様子で、夢中で蜜を吸っています。

でもこの蝶どこかで見たような・・・と感じていましたが。

早速その日のブログにアップしましたら、すぐにコメントが届きました。

先日お邪魔したブログの方からです。

「我が家で飛び立っていった蝶と同じ種類のものです!」と。

この『ツマグロヒョウモン』を幼虫から蛹になり羽化するまでを写真に収め、ブログに載せていらっしゃったのです。

「羽化したばかりの時は真珠色でしたが、次第に銀色、金色となり、日を浴びてメタリックに光っていました」

「中秋の名月待ちて蝶の飛ぶ  凡比」

「ツマグレヒョウモンはスミレが大好きな蝶で、生まれもスミレの葉で育ちました。これは女の子です」・・・と。

他にも詳しい方がいらっしゃって、やはりスミレの大好きな「ツマグレヒョウモン」だと教えて下さいました。そして「きっとこの花から沢山のツマグレヒョウモンが生まれますよ」ですって、私、蝶は大丈夫だけど幼虫には弱いので、ちょっと困っています。

昨日今日とお天気が悪くてツマグレヒョウモンは飛んできてくれません。

女の子だと聞いて、、なんだか可愛くなり心待ちにしているんですけど。

秋蝶の夕日に透けて飛び立てり  陶子

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2009年9月27日 (日)

手書きノート

パソコンやケータイ、インターネットが全盛の今日、手書きのノートがにわかに脚光を集めている。
東大生のノートのまとめ方の本や、それにちなんだノートの開発、成功を納めた社長さんや経営者のノート活用法を記した本が話題だ。
スポーツ界においてもサッカーの中村俊輔選手やプロ野球の野村克也監督もノートを活用しているという。
試合や練習の様子をこつこつと記録し続けることで、やがてそれは膨大なデータとなり、武器となりゆくのであろう。

沖縄に甲子園から悲願の優勝旗を持ち帰った沖縄尚学の比嘉公也監督も部員にノートの提出をさせているという。
練習前にノートを提出させ、終わるまでに目を通す。必要であればコメントもつけ、叱咤激励、技術論など部員とのやり取りにノートは大切なツールとなっているようだ。
面白いのは「図書館の先生が応援してくれた」と書いた部員に、「図書館の先生にも立派な名前がある。名前で書け」と返したというエピソード。
野球もさながら、それ以外のことでも部員にとっては大切な一冊となることだろう。
そしてまたさすが優勝旗を持ち帰った監督さんだと頷ける。
便利でスピーディーで最近はなんでもメールに頼りがちになってしまうのだけど、でもメールだとこのようなエピソードは生まれないだろう。

ところで私もちょこっと手書きを実践している。
私の愛用している手帳は「なんでもない日おめでとう」をコンセプトに作られた「ほぼ日手帳
記しているのはほとんど落書きで、人に誇れるものではないのですが・・・
日記というかメモというか、走り書きの俳句やなんかも書いてあって、後で役立つことも。

新聞や雑誌などから気に入った言葉なんかがあると書き写したり、切り抜いて張り付けたり、最近のページには「夢を逆算するとどうすればいいのか見えてきます」という高田万由子さんの言葉の切り抜きが張られている。
また先月は、ご褒美旅行と称して友人と行ったソウルでの写真やコメントで旅日記風の楽しいページも。
いいのかどうかはよく解らないけど、手帳に記したいから
行動を起こすみたいなところもあって、生活に張りが出てきた感じがしている。
もちろん良いことばかりではなく、バカヤローの殴り書きや涙マークだらけの日もあるけど。でもその後にまた前向きな言葉が綴られていたりすると、我ながら健気だなって愛おしくもなってくる。
来月には4冊目となる2010年版が届く予定だ。
前掲の超一流のノートには程遠いけれど、笑顔で読み返せるノートにはしたいものだと思っている。

 秋風や旅の写真のはや古ぶ  にぬふぁ星 



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2009年9月16日 (水)

「幸せはシャンソニア劇場から」

9月のはじめ、友人の個展を見に銀座へ出かけた帰り道、和光裏の映画館で「幸せはシャンソニア劇場から」のロードショーが初日であった。題名に引かれてふらりと入ってみたが、確かに見終わった後は幸せな気分になった。

地下にある映画館から外に出ると、暮れかかった銀座は映画の中のパリの裏町のようで、シャンソンやアコーディオンの音が耳に残りながら駅に向った。見終わった後、映画の世界に浸っている時間は映画を見る楽しみの一つである。

 さて、この映画は1936年、世界恐慌の煽りを受けたパリの下町にあるシャンソニア劇場を舞台にした物語である。実話ではなく、街並や劇場は全部セットで本物でないということだが、劇場のネオン、石畳の街並みにBGMが流れると、行ったこともないのに何だか郷愁を覚え、胸がキュンとしてくる。きっとあの劇場はパリのどこかにあったのでは、そして、あの父子もどこかで幸せにアコーディオンを弾いていたのでは思ってしまう。 

 この映画の懐かしさをどこかで感じたことがあると思った。そう、あの「ALLWAYS3丁目の夕日」を見たときと同じ懐かしさであった。

最近は地域社会の人間関係が希薄になり、隣近所の人がどんな生活をしているのか知らなくなった。干渉されなくて良い面もあるが、困った時に近所で助け合うということも少なくなった。しかし、人を思うやさしさに触れた時、人は心から幸せを感じる。「変わらない大切なもの」は時代や国が違っても同じなのだと思った。

数日前、久しぶりに向田邦子のテレビドラマをみて、またジーンとなった。涙もろくなったのは、人恋しい秋だから、それとも歳のせいかしら?

マダムの皆様のお近くでこの映画が上映されていたら是非みてください。 

    

   シネマ果て蒼く暮れゆく街は秋      吾亦紅    

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2009年9月 5日 (土)

ちひろの絵と俳句

皆さんは、ちひろの絵を知っていますか?

結婚して初めて住んだ国分寺の殿が戸公園のゆるい坂を下った交差点の小高い丘の上のアパートは、場所柄学生が多く私も荻窪の銀行に勤めていたため大家さん以外は、ほとんどお付き合いのない毎日だった。やがて子供が生まれ、育児書を見ながらの子育てに精一杯の毎日をおくっていたある日、TVで亡くなったちひろの自宅のとなりにちいさなちひろの美術館ができるニュースを聞き、まだ小さい長男の連れて電車を乗り継ぎ行ってみた。

子供の絵本が読めるスペースもある美術館は、ちひろの原画に自分の子供を重ねて観ているうち、育児に疲れた心を存分に癒してくれた。そう・・楽しく子育てしよう!子供ってこんなにかわいらしいんだ・・って元気をもらって美術館を後にしたのを覚えている。

その後国分寺より関西に引越して、子供も大きくなり忙しい日々を送っていても、町や本屋であの独特なタッチの絵を見かけるたびに育児や原因不明の耳鳴りに落ち込んでいた私を励ましてくれた絵に惹かれるように立ち止まった。

やがて子供たちも成人して、また夫婦二人の休日にもどり夏休みは、気ままに二人で旅行できるようになり5年前念願の安曇野ちひろ美術館に行った。信州の山並みのふもと松川の自然の中にある美術館で木のデッキチェアーでゆっくり過ごして思い出の原画の前で感慨深かった。ここは世界の絵本の原画も観られ、なつかしい絵本の原画に読み聞かせした日々が懐かしく思い出された。

先日、ちひろ没後三十年記念「私が選んだちひろ展」を隣の市の美術館で見た。一度にこんなたくさんの原画が観られる喜び。。どれも懐かしく愛おしい。。この絵の中に自分の子供の頃やわが子の小さかった時を重ねながら観た。どの絵の前に立っても鼻の奥がつんっとしてこみ上げるものをおさえるのに困った。

ちひろの長男である猛さんが数年前雑誌に「ちひろは生前自分の絵は、俳句に近いと言っていた。」と書かれていた。

余白をあえてつくるような・・すべてを説明的に描かず抑制を利かせた作風で、見る人の想像力を膨らませる。だから絵の前に立つとその絵の中に入っていけるのだと思う。

あ~・・自分の俳句を思うと反省しきり・・

俳句も余白あえて残す・・説明的に詠まずに・・

読む人の想像力を膨らまさせる・・を目標にしているが、自分の詠んだ句が独りよがりになっていないか?・・

絵と俳句の意外な接点の発見とおいしいものをたっぷり頂いたような満腹感な?心で大好きなちひろの図録を大事に抱え帰ったのでした♪

いわしぐもちひろのえほんかかへをり   藍

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2009年8月25日 (火)

終末のフール

物語は、八年後に小惑星が地球に衝突して人類が滅亡するという情報が発表され、その五年後の世界。あと三年でみんな死んでしまう世界で、人はどう生きていくのだろうか。

情報発表後、地上のあらゆる場所で混乱が起きた。投げやりな人々があちこちで暴力を振るい、物を盗み、建物に火を放った。生きていてもしょうがないとビルから飛び降りる者もいた。より安全な場所を求めて移動する人もいた。何でもありの世の中だった。

富士夫は自他ともに認める優柔不断な性格。食事でも旅行の経路でも、選択の余地はない方が望ましいと思っている。その富士夫が難しい選択を迫られていた。10年も子どもができなかった夫婦だったが、妻の妊娠がわかったのだ。もし生んだとしても、あと三年しか生きられないのだから果たして子どもは幸せなんだろうか。

決断のできないまま時は過ぎていった。そんなとき昔のサッカーの仲間と出会い、久し振りにサッカーをしようということになった。仲間の何人かはまだ町に残っていて、日の暮れるまでボールを蹴り合った。仲間のひとりは、難病の子どもをもっていた。そして、その子をひとり残していかなくてもいいから、今とても幸せだという話をきいた。

どんなに悲惨で希望のない状況でも人は生きてゆく。たとえ、期限が限られていなくても人間は死とは隣合わせである。しかしまだまだ先のことのように思っている。悩める人々に寄り添いながら、作者特有のどこかとぼけたユーモアが漂っているとても味わい深い伊坂幸太郎の世界だった。

(「終末のフール」伊坂幸太郎 集英社文庫)

草むらにボール消えゆく夏の果  卯月

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2009年8月15日 (土)

大人の絵本

この夏「山本容子のジャズ絵本’Jazzing’」という本を購入した。確か2年ほど前に日経ネットで紹介されているのを目にし誰かへのプレゼントにと思っていたのだが、店頭で見かけることがないまま2年も経ち、今になって’実は自分が一番欲しかったんだ’ということに気づいた次第・・・。たまたま主人がネットで他の書籍を買う場面に居合わせ、ついでに頼んでやっと手にしたのでした。
山本容子さんはテレビや雑誌でもお馴染みの著名な銅版画家の方で、A4版の表紙は勿論、ページをめくると左に独特のタッチで絵と音符と歌詞が描かれ、右にJazzのナンバーについて曲との出会いや曲の背景などが書かれています。その数24曲。彼女にとって音楽と版画・絵というのは小さい頃からイメージとしてどこかで繋がっているものだったようです。
かくいう私、全くの素人からSAXを吹き始めて数年。去年あたりからテクニックは頭打ち。楽器のせいにしては手の届くお値段の部品を付け替えたりしてきましたが思うような音が出せないまま横好きを貫いておりました。が、最近になって曲への新しいアプローチの方法を発見しました。それは歌詞。レッスンでは楽譜と伴奏と先生のコメントだけがアプローチの材料なのですが、歌のあるものは歌詞を理解できればもっと素敵な、納得のいく音が出せるのでは!?と都合のいい解釈をして、最近は特にJazzやボサノヴァを聴く時、メロディーはもとより歌詞にも注意深く耳を傾けるようになりました。そんな折手にしたこの本は、思いがけずCDも付いていて、歌詞が楽しい絵の中に綴られており、曲の解説なども語られていて、読んで楽しく曲への感情移入の助けにもなりとっても重宝!? 苦肉の策とはいえ何事も思い込みは大事ですから。
Love is now the stardust of yesterday~♪(恋は今、過ぎてしまった星屑=本文より)なんて、それこそ遠い昔の恋心を思い出してスターダストを演奏できる日が来るといいのになぁ。
以前友人が「ボサノヴァをかけながら料理しているといい女になった気がしてくる」と言っていた。最近たまにやってみる。そしてそんな気になってみる。

     できたよと夫の声して昼寝覚     ゆば

あれっ?まあ、たまにはいい男に台所を預けても・・・許されるかな?

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2009年7月31日 (金)

10も歳の離れた弟が結婚した。しかも私より早く。まあ、別に順番はどうでも良いがのだが(少し負け惜しみ)、彼が幼かった頃のことを思うとなんとも不思議だ。女の子と間違えられるほどの可愛い面影、頼り無い今時の若者であった高校生の面影、それらは全て消えた、そして、男の大人の顔つきになった。というか、精神的に私を越えた。

彼は私と違い、無口でクールな雰囲気であるものの、実は三枚目である。そのギャップが面白いのか私以上に友達は多い。母に、冗談で友達を減らせとまで言わせた。大学時代は自由奔放に遊びまくり、新宿でホストまがいのことをし続け、学業には励もうとはこれっぽっちもせず、親を心配させた。しかし、意外にもそんな彼を見て、両親は本人に煩いことは言わなかった。長男に期待していた父が、じっとじっと堪えていたのが良くわかった。私は、そんな弟を少なからず羨ましくも思った。

 義理の妹は、もちろん私と歳が離れているものの、しっかりした気立ての良いお嬢さんだ。ありがたい限り。ほっとしている。小姑は心からこの妹の出現を喜んでいる。また、よくもこんなに申し分の無いお嬢さんを見つけてきたと弟に感心する。そして、家族が増えるのは嬉しいものだとつくづく思う。

弟が小さい時に父が植えた柿の木は、何年経ってもなかなか実を付けなかった。父は、「大器晩成、長男と一緒だ。」と言いながら柿の木を育てた。実が付いた時、彼はとても喜んだことを思い出す。いまやその柿の木は毎年実をたわわにつけ、母の梅酒には欠かせなくなった。

時が流れるということは、こんなことなんだとふと思う。移ろい行く「時」は、色々な事を私達に教えてくれ、気付かせてくれる。弟よ、幸せであれと姉は思う。

遠花火窓より子らの声こぼれ  瞬草

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